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2008年5月 5日 (月)

バランス

バランス 2008,5,5
あたしは、今までの気付きの中で、到達した言葉がある。
それは、バランスである。

 世の中の現象は、常にバランスをとろうとする行ったり来たりの躍動である。
行き過ぎると必ず揺り返す。そして、揺り返しの結果また行過ぎる。そして、逆の揺り返しが発生する。

 そうやって、やじろべぇのように振幅しながら、最後にはバランスがとれるただ一点に向かって静止しようとする。それが、センターである。

 そのバランスの点こそ、あたし達の本質的な心だと思っている。

あたしは思う。

 あたし達は、三つの要素で活動している。いや・・躍動と言っても差し支えない。
躍動とは、生命そのものの創造の波動である。波動は、やがて聖なる静寂へ向かって全てを包括して、静止する。それが、悟りである。

 三つの要素の一つは、光と愛の世界である。それが、あたし達の本質だ。全てが一緒になっている、一体性のある場所である。それが、あたし達の実像そのものである。

 そこから、少し離れた場所に違う要素が存在する。いや、、存在するのではない・・あたし達が存在すると思いこんでいる極である。それは、孤独である。孤独は、一体性の対極にあるものだ。そこには、何も無い。。。愛も思いやりも、、ただ、悲しみがあるだけだ。

 三つめの要素は、光と愛の世界と孤独の世界の間に存在する、さまざまな感情の世界である。それは、相対的に創出されているもので、光の世界とは全く無縁の状態である。
二つの世界の間にあるもの、、それは、闇と不安の「気」である。

 あたし達は、光と愛の実像からはなれることによって、さまざまな感情を経験する。怒り、妬み、愚痴・・そういう「気」を心的な体験として経験するのである。
 
 気分の落ち込みは、光を求める創造の波動の振幅である。光を求めて、、本来の自分に回帰しようとして、振幅するのである。

 バランスを失う原因は、光が自分以外の他の場所にあると誤解することからその振幅の幅を大きくしてしまうことである。光は、実は、、自分のいる場所の他方にあるのではない。光は自分自身の中心に、いつもあるのだ。でも、そのことを忘却の箱の中にしまいこんでしまったのだ。

 あたしは、その自分自身の中心にある実像・・光を、、「光の珠」と言ったのだ。

光の珠は、自分自身の中心にあるのだ。

 バランスは、いとも簡単に崩れ去るものである。なぜなら、この世はあまりにも重力の制約が大きく、あたかも現実が重く感じられるから、物事の振幅が光への回帰の運動だと思えなくなってしまうからである。

 だから、振幅そのものが、とてもつらく感じるのである。

悟りとは、その振幅を「光への回帰」、、そう「自分の実像を眺める運動」のことであると示唆したい。

 妬みは、本来の自分自身である優しい光への渇望である。

 怒りは、本来の自分自身である優しい心への渇望である。

 愚痴は、本来の自分自身である優しい一体性への渇望である。

だから、自分の中にある怒り・妬み・愚痴・・それらを自分自身の心の醜さの象徴として捉えることを、あたしは止めることにした。

それらこそ、優しい光を思い出すための、プロセスだと示唆したい。

優しい光を求める、派生物として、それらを優しく眺め、、、そして、傷つかず傷つけない、、優しい言葉を選んで、、話すことが振幅を小さくすることではないだろうか?

光の世界は、100%の受容と寛容の世界である。

だから、本来の自分自身に回帰しようとしている振幅運動を、優しい風とともに眺め、バランスをとろうとしている・・それらの感情が、自分自身の中にあることを、そして、それらを経験的に知ろうとしている自分自身を、、優しく眺めているのである。

だから、悟りは、その中心にあって、実像をながめている一個の全体を指し示す、羅針盤だと、、思っている。

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