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2008年5月11日 (日)

自由

自由 2008,5,11
もともと、人間の心は自由に躍動しているものではないだろうか?
自由に人を愛し、自由に人を思いやる、、そして、聖なる全体の一部分としての一体性への回帰が、あたし達の幸せの実感ではないだろうか?

瞑想という名の孤独や、戒律という名の束縛、そういった物事が実は何も上手く機能しない・・そういうことの観察が、あたしたちを本来のすがすがしい風に吹かれる為のプロセスそのものなのではないだろうか?

世界中の人達が、本当の自分自身として生活し、そしてその心の躍動のままに生き進んでいくことで賞賛される、、それが自由だと思っている。

宗教は、国境を創造し対立と闘争とそしてお互いの憎しみを創出してきたのではないだろうか?
自分達は正しいという信念が、違う信念を受け入れられず、未曾有の悲劇をあたし達にもたらしてきたのではないだろうか?

人が沢山死んでいった本当の理由は一体なんであっただろうか?
歴史上、愛と平和を語った人達の多くは暗殺されてしまったのはなぜだろうか?
だれが彼らを邪魔者扱いしたのだろうか?

今、戦争が起こっているのは、なぜだろうか?
なぜ、あたし達は大昔と全く同じことを繰り返すのだろうか?
学問としての宗教が、世界を救っただろうか?
何千年も議論を繰り返してきた結果は、あたし達に幸せをもたらしただろうか?
否定は怒りを生み、対立と殺戮のらせん状の階段をあたし達の目の前に建設してきた。

その螺旋階段は人間の悲しい業だと言って、悲嘆の中で瞑想してきたあたし達は、一体何をなしてきたのだろうか?

愛、ではないだろうか?

愛を説くものは、夢想家として葬り去られてきた。
彼らは、ありのままの事実を語ってきた。
なぜ、ありのままを見せられると、腹がたつのだろうか?

あたし達の不安の果てに創造してきた幻想を、あたかも重い現実のように感じ、それを今という時まで語り伝えてきた。

知識は、誰かがあたし達に語り伝えてきたものだったのではないだろうか?

それは、真実だろうか?その映像をただの幻想として、打ち崩し、その瓦礫の向こう側でにっこり微笑んでいる者達の顔を見ること、そして、そういう優しい微笑みを湛える者でありさえすれば、それで十分ではなかろうか?



そういう思いで朝起きたら家族に、
「おはよう。今日も共にいてくれて、ありがとう。」と声をかけることができれば、


この人生は、素晴らしいと賞賛に値するはずだ。

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