2008年5月19日 (月)

全体をみる

全体をみる 2008,5,19
人間は十人十色といいます。
怒りっぽい人、気の弱い人、笑うのが好きな人、冒険好きな人、親切な人、泥棒する人、無責任な人、責任感の強い人・・・
人の性格はいろいろだ。でも、人の性格はただ一つだけだろうか?実は、この世にある全ての感情を一人の人が全て持っているのです。まるで多面体のようにいろいろな面があるのです。その多面体のうち、その時一番自分の中で問題意識のある面を、「選択」しているに過ぎません。
喜び、怒り、嫉妬、欲望、悲しみ、寂しさ・・・そういった全ての感情は人間として、コンパクトにまとまったように、自分自身の中にあるのです。

それらを全体として見渡しながら、物事を物事として眺めることが出来るとき、、それを悟りというのです。

人間に特定の一部分など無いのです。
今、怒りを感じているからといって、「怒り」の感情だけが、全体から独立して存在するのではありません。

・・良く考えて見ましょう。

なんで、怒りを感じるのでしょうか?怒りは傷ついた心を癒したいという欲求の現れです。愛であるはずの自分自身なのに、誰かが、、または、何かが、、または、ある特定の物事が、愛とは違うことをあたし達に「為した」から、傷ついたと思っているのです。
それを癒すための、ある特定の心の方向性の一つが、「怒り」なのです。ですから、「怒り」の感情そのものが、単独では発生しえないし、存在もしえないのです。
「怒り」を全ての自分の中にある感情から切り離して、特定し、部分として捉えることから、分離が発生します。分かち難いものを分離することによって、全体で無いあたしたちになってしまうのです。その結果、糸の切れたタコのように、「怒り」という概念だけが迷走してしまいます。

なぜ「怒り」を感じているのでしょうか?自分自分のどの部分が、その物事に反応しているのでしょうか?そしてそれは、他の感情の断片達と、どういう関係で連結しあっているのでしょうか?
それを観察することが、大事なのです。

部分などないのです。

全ては一個の全体として、まあるくとじているのです。

全ての感情は、愛を源に発生しているのです。でも、全体として感情を眺められないから、その中心に愛が存在することに気が付かないでいるのです。

まるで、顕微鏡で紙の粒子だけを見ていると、それが実は「紙」であることにきがつかないのと良く似ています。


全体をみること、、、それが、癒しのメカニズムなのです。

2008年5月18日 (日)

あるがまま

あるがまま 2008,5,18
すべての全体として、一部分をみたとき、そこには分離は存在しないのです。

そして、全体はあるがまま、「在る」だけなのです。

個としての自分は、実は全体でもあるという真実に気が付くこと。。
それが、あるがままに自分自身を観察し眺めることに他なりません。

注意をはらう範囲を、全体としてみることができるとき、部分はもはや全体から分離した部分ではありえないのです。

そういう視点は、まさに神の視点です。

神の視点に立つことは、すなわち、全体としての自分自身をあるがままに観るということに他なりません。

そこに観えるのは、怒りであれ、嫉妬であれ、愚痴であれ、、悪しきものなどありえないのです。全ての感情は、愛が姿を変えた一部分であることの、気付きなのです。

気付きは、一部分の特定ではありません。

全的な視点に立つことの、爽快な、すがすがしい風景への回帰なのです。

すべての部分への拘りからの、解放です。

2008年5月16日 (金)

解放

解放 2008,5,16
愛するというのは、とても素晴らしいことだとみんなが思っています。

しかし、あたしたちは愛するという範囲を限定的にするが故に、執着と拘りの次元にさ迷ってしまいます。

愛は、100%の受容と寛容、そして自由、あるがままなのです。
愛は見返りを期待した取引ではないのです。愛は、ただあるがまま、愛する人々に対して無償に注がれるものです。ちょうど太陽の光が、全ての物に平等に降り注ぐように、あたしたちがどんなことを考え、どんな心の状態にあろうとも、太陽は変わらず光を注いでくれています。かといって、太陽は「なにかよこせ」などとは絶対に言わないのです。太陽は太陽として、ただそこに「在る」だけなのです。

それが、愛です。

愛に拘るあたし達は、さまざまな不安の世界で苦しむのです。最初、相手が自分を愛してくれているだろうか?という不安に苦しみます。相手があたし達に愛を語ってくれたとき、とても嬉しいのですが、次の瞬間、、それがほんとかどうか不安になるのです。相手が「ほんとだよ」と言ってくれた時、とても嬉しいのですが、その次の瞬間にはその関係性がずっと継続するかどうか、とても不安になるのです。いつまでも、安堵に満たされることはないのです。
結局、愛するが故に、不安の世界からは解放されないのです。

じゃあ、一体安堵を感じる愛はどこにあるのだろうか?

確かにそれはあるのです。あの太陽と同じように・・・・

すべての感情の源は、愛です。愛は、自分自身の中にあるのです。
実は、あたし達自身が、愛の何たるかもともと知っている教師であり、学徒でもあるのです。
ゆえに、愛の何たるかを他人に問うても、答えは与えられないのです。

不安、怒り、嫉妬、欲望・・・そういったありとあらゆる感情を全体として眺めることができたとき、、、自分自身は何物からも分離していないということを理解したとき、、

すべての謎が解き明かされて、ありのままの自分と対面することになるでしょう。その時、ありのままの自分自身が、「愛」を語り始めるでしょう。

愛するもの達の自由を願うとき、自分自身も愛されていることに安堵し、そして、不安から解放されるのです。

2008年5月15日 (木)

境界

境界 2008,5,15
幸せになることは、いかなることだろうか?

そもそも、幸せとは一体どういう状態のことだろうかと、思いをめぐらせて見る。

それは、心の平安、、安堵の空気ではなかろうか?
安堵の空気は一体どこにあるか。。それは、自分自身の真なる心の中心にあるものだ。

でも、この世での生の葛藤に生きるあたし達は、いろいろな垢をためてしまって、その中心にあるものが、ぼやけて見えにくくなってしまっている。

一瞬、垣間見ることはあるが、その安堵の空気はまるで幻想のように目の前から消え去ってしまう。

だから、安堵の空気など、ほんとは無いのだと思い込んでしまうのである。


生と死の境界線から離れることが、道であると思っている。死という将来必ず起こる肉体の変化に、あたしたちは恐れおののく。しかし、その不安そのものも、実は幻影かもしれない。

 「今」という時間を、念入りに、見つめることによって、生と死という不安の境界線がなくなってしまう。

 境界線がなくなったとき、あたしの心は眩い光の中にぽっかりと浮かんで、

 そう・・安堵の空気の中にいるのだ。


 それは、夢や幻想ではない。。それは、「事実」だ。

 怒りや愚痴や果てしない欲求の心、言葉、行為に生きるとき、、あたしたちの心は自分の創造した空気のなかで、苦しむのである。

 生と死の境界を越えたとき、怒りを生む因となる拘りを捨て去ったとき、、

 無垢な心に安堵の空気が流れ込んでくる。


 あたしは、そのことを優しい風と読んでいる。

 
 
 とても幸せな気分・・・だな。


 優風


 いい名前だ。

2008年5月11日 (日)

自由

自由 2008,5,11
もともと、人間の心は自由に躍動しているものではないだろうか?
自由に人を愛し、自由に人を思いやる、、そして、聖なる全体の一部分としての一体性への回帰が、あたし達の幸せの実感ではないだろうか?

瞑想という名の孤独や、戒律という名の束縛、そういった物事が実は何も上手く機能しない・・そういうことの観察が、あたしたちを本来のすがすがしい風に吹かれる為のプロセスそのものなのではないだろうか?

世界中の人達が、本当の自分自身として生活し、そしてその心の躍動のままに生き進んでいくことで賞賛される、、それが自由だと思っている。

宗教は、国境を創造し対立と闘争とそしてお互いの憎しみを創出してきたのではないだろうか?
自分達は正しいという信念が、違う信念を受け入れられず、未曾有の悲劇をあたし達にもたらしてきたのではないだろうか?

人が沢山死んでいった本当の理由は一体なんであっただろうか?
歴史上、愛と平和を語った人達の多くは暗殺されてしまったのはなぜだろうか?
だれが彼らを邪魔者扱いしたのだろうか?

今、戦争が起こっているのは、なぜだろうか?
なぜ、あたし達は大昔と全く同じことを繰り返すのだろうか?
学問としての宗教が、世界を救っただろうか?
何千年も議論を繰り返してきた結果は、あたし達に幸せをもたらしただろうか?
否定は怒りを生み、対立と殺戮のらせん状の階段をあたし達の目の前に建設してきた。

その螺旋階段は人間の悲しい業だと言って、悲嘆の中で瞑想してきたあたし達は、一体何をなしてきたのだろうか?

愛、ではないだろうか?

愛を説くものは、夢想家として葬り去られてきた。
彼らは、ありのままの事実を語ってきた。
なぜ、ありのままを見せられると、腹がたつのだろうか?

あたし達の不安の果てに創造してきた幻想を、あたかも重い現実のように感じ、それを今という時まで語り伝えてきた。

知識は、誰かがあたし達に語り伝えてきたものだったのではないだろうか?

それは、真実だろうか?その映像をただの幻想として、打ち崩し、その瓦礫の向こう側でにっこり微笑んでいる者達の顔を見ること、そして、そういう優しい微笑みを湛える者でありさえすれば、それで十分ではなかろうか?



そういう思いで朝起きたら家族に、
「おはよう。今日も共にいてくれて、ありがとう。」と声をかけることができれば、


この人生は、素晴らしいと賞賛に値するはずだ。

2008年5月 5日 (月)

バランス

バランス 2008,5,5
あたしは、今までの気付きの中で、到達した言葉がある。
それは、バランスである。

 世の中の現象は、常にバランスをとろうとする行ったり来たりの躍動である。
行き過ぎると必ず揺り返す。そして、揺り返しの結果また行過ぎる。そして、逆の揺り返しが発生する。

 そうやって、やじろべぇのように振幅しながら、最後にはバランスがとれるただ一点に向かって静止しようとする。それが、センターである。

 そのバランスの点こそ、あたし達の本質的な心だと思っている。

あたしは思う。

 あたし達は、三つの要素で活動している。いや・・躍動と言っても差し支えない。
躍動とは、生命そのものの創造の波動である。波動は、やがて聖なる静寂へ向かって全てを包括して、静止する。それが、悟りである。

 三つの要素の一つは、光と愛の世界である。それが、あたし達の本質だ。全てが一緒になっている、一体性のある場所である。それが、あたし達の実像そのものである。

 そこから、少し離れた場所に違う要素が存在する。いや、、存在するのではない・・あたし達が存在すると思いこんでいる極である。それは、孤独である。孤独は、一体性の対極にあるものだ。そこには、何も無い。。。愛も思いやりも、、ただ、悲しみがあるだけだ。

 三つめの要素は、光と愛の世界と孤独の世界の間に存在する、さまざまな感情の世界である。それは、相対的に創出されているもので、光の世界とは全く無縁の状態である。
二つの世界の間にあるもの、、それは、闇と不安の「気」である。

 あたし達は、光と愛の実像からはなれることによって、さまざまな感情を経験する。怒り、妬み、愚痴・・そういう「気」を心的な体験として経験するのである。
 
 気分の落ち込みは、光を求める創造の波動の振幅である。光を求めて、、本来の自分に回帰しようとして、振幅するのである。

 バランスを失う原因は、光が自分以外の他の場所にあると誤解することからその振幅の幅を大きくしてしまうことである。光は、実は、、自分のいる場所の他方にあるのではない。光は自分自身の中心に、いつもあるのだ。でも、そのことを忘却の箱の中にしまいこんでしまったのだ。

 あたしは、その自分自身の中心にある実像・・光を、、「光の珠」と言ったのだ。

光の珠は、自分自身の中心にあるのだ。

 バランスは、いとも簡単に崩れ去るものである。なぜなら、この世はあまりにも重力の制約が大きく、あたかも現実が重く感じられるから、物事の振幅が光への回帰の運動だと思えなくなってしまうからである。

 だから、振幅そのものが、とてもつらく感じるのである。

悟りとは、その振幅を「光への回帰」、、そう「自分の実像を眺める運動」のことであると示唆したい。

 妬みは、本来の自分自身である優しい光への渇望である。

 怒りは、本来の自分自身である優しい心への渇望である。

 愚痴は、本来の自分自身である優しい一体性への渇望である。

だから、自分の中にある怒り・妬み・愚痴・・それらを自分自身の心の醜さの象徴として捉えることを、あたしは止めることにした。

それらこそ、優しい光を思い出すための、プロセスだと示唆したい。

優しい光を求める、派生物として、それらを優しく眺め、、、そして、傷つかず傷つけない、、優しい言葉を選んで、、話すことが振幅を小さくすることではないだろうか?

光の世界は、100%の受容と寛容の世界である。

だから、本来の自分自身に回帰しようとしている振幅運動を、優しい風とともに眺め、バランスをとろうとしている・・それらの感情が、自分自身の中にあることを、そして、それらを経験的に知ろうとしている自分自身を、、優しく眺めているのである。

だから、悟りは、その中心にあって、実像をながめている一個の全体を指し示す、羅針盤だと、、思っている。

2008年5月 4日 (日)

歩行

歩行 2008,5,4
あたしは、もともと足の長さが右と左で少し違っている。左足の方が、少し長い。長いといっても、ほんのちょっとだけど、そのちょっとが歩行に大きく影響している。
立っているときは、必ず左足を少し前に出して右足に体重をかけている。どうしてかというと、そのほうが楽だからだ。
元気なときはちゃんと歩けるが、疲れていたり体調が悪かったりすると、歩くときによく地面に蹴躓く。左足が地面にひっかかるのである。たまに、なんでもないところでこけそうになったりもする。それに、ちょっと足を引きずるような歩き方になってしまう。

 今日は、昼間運動不足を解消しようとして、かなり歩いた。。。でも、結局体調があまり良くないので、歩きにくかった。こういう時は、無理してはいけない。

 歩くという人間の基本的な動作は、とても重要だと思っている。歩くという動作で、人間は大きな進化を遂げたのだそうだ。二足歩行をすることによって、脳のキャパが劇的に増加したのだと、科学者は言う。

 ダーウィンという人がいたそうだ。彼は、進化論という近代の科学と思想に大きな影響を与えた研究を発表した。
 
 あたしは、進化論には実は問題があると思っている。生物は古代からの進化によって今の形があるのだと、、彼は言う。
 でも、大きなことを忘れてしまっている。それは、「時間」の概念である。悠久の時の流れの中では、彼が言った「進化」は、一瞬の出来事に過ぎない。だから、神という創造者が一瞬に全てを創造したというのは、事実だと思っている。我々の時間の概念からすれば、長い時間をかけて発達した生命も、宇宙の視点にたつと、、わずか一瞬の出来事なのである。
だから、人間はずっと人間だし、猿はずっと猿のまま・・・・だと思っている。

 あたしは、般若心経に惹かれている。いや、惹かれているというよりは、読んでいるとエクスタシーすら感じる。
 釈迦やキリストや、、近代においてはクリシュナムルティといった人達は、みんな同じことを言っている。そして、突き詰めれば、、、般若心経に書かれてることに尽きるのである。
 彼らは、まるで同じプロセスを経て、、悟りに至ったことに注目している。
それは、今で言う、「引きこもり」である。彼らは全員、悟りの前には「引きこもり」の期間があった。研究書物を読んでいると、良く分かるが、かならず、「うつ」の時期があって、結果悟るのである。
彼らは全員、「悟ろうとすることを、克服した」人達であることが、、とても興味深い。

 あたしは、ある種の「悟り」を持った。自分自身が、「ああ、ありのままでいっか・・」みたいな気分になって、気負いがなくなった。そして、いろいろ過去の自分の発言や行為、、一つ一つをレビューしながら生きている。赤ちゃんの頃からの自分の態度を、反芻している。しかし、自責の念にとらわれることは無い。だって、その時はそれが正しいと思っていたから。。ただ、普通の人と違っていることは、自分の過去の言動や行為によって、周囲の人達にどういう影響を与えたのか?ということが見えるようになっていることである。そして、今の自分の心のありようを、修正しながら生活している。

知識は、思考であって心では無い。思考は過去の産物で、「時」の経過ととも忘却の箱の中に移動してしまうものである。そして、ときどき思い出したように、その箱を開けて思い出そうとするのである。

 重要なのは、心の修正と創造の行為への適用だと思っている。

知識を元に心を修正し、創造の行為へ適用する。。
これを、あるスピりチャルな人は、こう表現している。

「やろうとするのはやめてください。ただ、やってみるのです。」

そして、あたし達人間は、愛や友情や友愛を描くために、いろいろ悩み、、
そして、試行錯誤しながら、人生を創造しているのだと思っている。

2008年5月 2日 (金)

安堵

安堵 2008,5,2
安堵は、どこにあるだろうか?

安堵は、心の平安か?それとも、厳しい修行のあとにくる、沈黙の中にあるのだろうか?

いや、ちがう。。。

安堵は、愛の表現だと思えないだろうか?不安や心配事や恐怖や怒り、、そういう愛では無い者達から、離れることではないだろうか?

どうやったら、そこから離れられるだろうと、、、過去数千年の間、あたし達はいろいろな試みをしてきた。しかし、安堵の静寂を経験した者達は、みんなにそれを伝えようとして、その困難さに直面してきた。

ある者は霊的な言葉を発し、ある者は戒律という名の言葉に置き換えられてしまって、なかば、やれやれ・・という気持ちだけを残して、この世を去っていった。

あたしたちは、精妙なバランスの中で生かされて来た。そのことが、そもそも永遠の安堵に値することではないだろうか?

そして、絶えることの無い循環や変化の中に、生命の一続きの、らせん状の進化を体験するのである。

あたしたちは、永遠の時の中で、進化する生命の一部分なのだ。


だから、もともと、安堵の中に生まれそして安堵の中に溶け込んでいく、、


そういう素晴らしい経験をしているのではないだろうか?


そういう視点で、庭の花々を見たとき、ため息が出るほどの美しさに、心が震えるかもしれない。


あたしは、生命の偉大さに耽溺している。

2008年2月 8日 (金)

言葉の限界

言葉の限界 2008,2,8
久々です。

皆さん、お元気でしょうか?

思うところあって、日記を休んでおりました。

メッセージにいろいろと書き込んでいただいていた皆さん。。

あたしは、元気にしております!!


最近、思うところというのは、言葉の限界を感じているからです。言葉は、結局、信念や、概念や、人間が思うことを「音」にして相手に伝えるという壮大な人類の試みです。
しかし、この雑音とも言うべき「音」では、未だかつて正確に相手に真実を伝えられたことは無いのです。それは、歴史が証明しています。
「文字」は、その雑音とも言うべき「音」を記号化して残すという、これまた更に壮大な目論見だったのですが、未だかつて正確に情報を伝えられたことはありません。

伝えたいことは、そういう雑音や落書きではなかなか正確に伝わらないのです。

色ですら、その人がどんな風に見えているかなんて伝えることができません。せいぜい「薄い赤・・」ぐらいが関の山です。

山々やその素晴らしい自然の生き生きとした生命を、正確に伝えた人は、どこにもいない。。。「それっぽいこと」は表現者によって、表現されてきたけれど、、どれもこれも完全には伝わっていない。。

言葉とは、そういう不便で不完全で、、しかもグローバルには活用できない、、まるで駄目なツールなんだということを、最近、理解できました。

思考が創出した、人工的な、、おおよそ真実とは言い難い概念、、怒り、嫉妬、敵意、不満・・・そういうものを言葉で表すのは、とても簡単だな。。そして、言葉を相手に投げかけることによって、より効果的に、そういう愛とは言い難い概念を機能させてきた・・それが、あたし達の歴史だ。

愛と思いやりは、そういう人工的な思考や概念の向こう側にあるべきもので、、言葉や文字では、到底そこには到達できない。結局、時間の枠に縛られて、育った環境の枠に縛られて、両親の間違った教えや、学校や社会のゆがんた独りよがりな常識を植え込まれた、、そういう固定的な信念の呪縛の中でしか、、言葉は出てこないのです。

愛と思いやりは、、今、自分達が信じているものを、全て破壊した瓦礫の中に満面の笑みをたたえてたたずむ一人の子供の瞳の中にある、光のようなものだ。

自分自身の表層にあるものを、とっぱらって、、空っぽになったとき、、全てのものが流れ込んでくる。。

そういう体験が、愛と思いやりだと分かった。

言葉は、何も真実を語らない。語り部が見た真実しか語らないのです。だから、真実をありのままに見て語るという行為は、、実は、言葉では無理なんだと思うのです。

服を脱いで、必要の無い信念を脱ぎ捨て、一枚一枚この体の皮膚や骨を分解していったとき、、、最後にまあるいちっちゃな光の珠が残るのを、あたし達は見つけるだろう。

そして、その光の珠は、とても綺麗で暖かく、天真爛漫にただ優しく輝いているだろう。

その光の真実に触れたとき、、

言葉など、まったく意味をなさないほどに、強烈な躍動と、活発な変化を見るだろう。


それが、愛だな。




皆さん、なんだか、分けわかんないでしょ?

なかなかね、難しいんですよ、、

人間の言葉で説明するのって、、ほんとに、難しいんですよ。


でも、世界中の人に、伝えたいんだ、、正確に伝えたいんです。


なんか、いい方法、、ないもんかねぇ・・・

2006年8月27日 (日)

ありのまま・・・

ありのまま・・・ 2006,8,27
最近、とんと性同一性障害・・というカテゴリーのHPには入っていかなくなった。
それは、興味がなくなったからではなくて、日常化してしまったからだと書いておこう。

 それに、こういう言い方がいいかどうかは、分からないけれど、、、
同胞達がネット上で行っているやり取りに、少し闘争的な味わいを感じてしまって、読んでいると、とても疲れてしまうことがある。特に、議論、、それも専門的な知識を要するような議論には、知識がついていかないので、話に入れなかったりする。彼らの文章からは、少なくとも友好的な印象を持つことが出来ない。だれかの言ったことに、過敏に反応して、やったやられた・・・みたいな、戦闘的な印象を持つことさえある。

 あたしゃ、根が楽観主義的、、、というよりは面倒くさがり屋なのが災いして、難しいことを考える脳みその体力が極めて虚弱なので、、、難しい漢字ばっかりの書き込みを10分読んでいると、、、「まっ、いっか・・」みたいな気になって、すぐに理解することを諦めてしまうので、、、結局、蚊帳の外に追いやられてしまう。だから、極めて平和な毎日を過ごさせていただいている。

言い合いをして、、結論の出ない議論をして、、難しいことを言って相手を言い負かせて、、感情をぶつけて、、袂を分かって、、分裂して、、、孤立して、、、
・・・それがあたし自身の幸せにつながるのであれば、多分もっと必死になって書き込みをするだろうし、講演会とかに参加して意見を言うだろうが、、
とてもそうは思えないし、時間の無駄のように感じるから、、、そういう世界からは遠ざかっている今日この頃である。

最近のあたしは、やっぱり職場では男性としてのパフォーマンスを期待され、、男性用のクールビズに身をつつんで、、がんばっている。でも、結構楽しい毎日だったりする。社内の人達が、、通勤途中で出会う人たちが、、飲み屋のおねーちゃんたちが、、
ちょっと戸惑ったりしているのを、観察し楽しんでいたりする。。いろいろな誤解がとても面白かったりする。。。別に、一生懸命説得しようとは思わない。。他人に未知の世界を語って聞かせる楽しみを知ったので、、得意満面に自分のこと、手術のこと、、そうそう、、いうなればめったに経験できない人生体験を語る楽しみを見出している。

 自分を愛している。「あたしって、なんておもしれえ奴なんだろう。。」とか、「やっぱ天使よねぇええ」とか、「あたしって、グレート?」なんて思って、、心底、毎日が楽しい。

そう、、エンジョイできている。。あたしが引き起こす周囲の困惑、、混乱、、そして驚き、、、あたしの人生体験を語ることで、愛することを知る、、幸せを知る、、そういう相手の表情を見ているのが楽しい。そして、未知との遭遇をした人を観察するのも楽しい。。。だから、毎日が、楽しいのです。

男子トイレ、、、これって結構冒険だな。。女子のうち、、一体何人の人が男子トイレで用を足した経験があるだろう??。。女子のうち、一体何人の人が男子といっしょに着替えをした経験があるだろう??。。女子のうち、一体何人の人が、おちんちんをつけて女とセックスした経験があるだろう??。。

 あたしのありのまま・・・それは、、、
生まれながらにおちんちんをつけてて、、でも中身は女だと思っていて、、ちょっとつらい時期もあったけど、真面目に生きて、、子供にも恵まれていて、多美ちゃんを愛していて、、ちょっと不良で、、でも、みんなに愛されていて、、手術をして女のような体になって、、今、周囲の方々の愛と思いやりの中で、わがままを言わず、、でも、自分を表現しながら、、、楽しく生きている一人の幸せな人間。。。。ってことだ。

 だから、「あたしゃ、女だ!おめえら、あたしを女扱いしやがれ、ばかやろう!あたしが惨めなのは、おめえらがあたしを女だとみとめねぇからだ、ばかやろう!」。。。
・・などと、主張することは、、これから先、、絶対ないだろう。。

ただ、「あなたは、自分のことをどっちだと思っているの?」と親切に聞いてくれる人がいたら、あたしも誠意を込めて、、
「女だと思っています。」

って、簡単に答える自分でありたい。


 愛と思いやり、、、治療を通して知ったのは、、

 その二つの言葉以外、自分には必要が無いということだった。

 今では、悲しみも、嫉妬も、怒りも、、、消しゴムで簡単に消せそうだ。

 何故かって?
 
 それらは、印刷された文字じゃなくって、鉛筆で書いた下書きだということが
 分かっているから。。下書きは、絵が完成する前に、、ちょちょって消すべき
 ものだからね。。

 まるで、かさなりあった幻想のように。。。

«たまには、いいものです・・・

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